並木空の記憶録

「紅の空」の管理人2の備忘録

《shi》Just the usual.(いつも通り)

 体温計で熱を測った。
 見なかったことにした。

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「具合、悪いのか?」  その問いかけに、私は顔を上げた。質問を発した人物は液晶モニターに顔を向けている。 「いつもより話さないから、そう思ったんだ」  《黄昏》はキーボードを叩きながら言う。器用なものだ、と私は感心した。私だったらどちらかしかできないだろう。話すか、キーボードを打つか、そのどちらか一方だ。両方を均等に行おうとすると、どちらも中途半端になり惨憺たる結果を招くことになるだろう。こういうときに《黄昏》と私は全く別の人間なのだということを強く認識する。 「いつも通りだ」  私は答えた。  そう『いつも通り』に具合が悪い。具合が良かったことなどあったのだろうか、と私はざっと過去を振り返る。  ない。  単純明快な答えが出た。あの日から、いやあの日の前から、ずっと具合の良かった日など存在しないのだろう。具合が悪いことを忘れられていた日ならあるかもしれないが、それは本質的には変わらないということだ。  だから、この具合も悪さもいつも通りのことだ。それはまるで、ドラマが筋書き通りに進んで、予定調和的なエンディングを迎えるのに良く似ている。  キーボードの音がやんだ。  それから《黄昏》は私の目の前にやってきて、右手を取る。  《黄昏》の手は大きく、綺麗だ。手荒れという単語とは無縁の人生を歩んでいるのは正直に言って羨ましい。私は産みの母に似たのだろう。平均と比べてみると肌が弱い。しかし、この平均と比べてみるとという言葉が曲者だった。乾燥しやすい肌で、炎症を起こしやすい肌というだけで、皮膚科に通院するほどではないという弱さなのだ。  《黄昏》の指先が何かを探るように、私の皮膚の上を這う。荒れていない指先に不快感はない。青く浮かび上がった血管の上で、止まる。  60秒だ。  間近に《黄昏》の顔があった。もっとも、こちらを見たりはしない。《黄昏》の真剣な横顔を見ながら、私はぼんやりと草木の香りを聞いていた。  自分と良く似た、少し違う香りだ。安心する。私は《黄昏》の家族になるために努力をしたから、私は《黄昏》と良く似たところがある。出来合いの家族だとしても、家族らしく見えることを《黄昏》は望んでいた……と思う。少なくとも、そう望んでいるようには私には見えた。私も《黄昏》と家族らしくならなければ、生存を危ぶまれたから本能にも近い感覚でもって、同化することを意識した。  ふと《黄昏》が顔を上げた。  《黄昏》の目の虹彩は、私と違う色をしている。間近で見なければわからない違いに、疎外感を覚えた。 「病院に行くぞ。  まったく。無自覚すぎる」 「緊急を要しているとは思えない」 「明日、休みで良かった」  私の言葉を無視して《黄昏》は言った。右手首の関節が外れるのでは、と思うような勢いで私は引っ張り上げられる。 「些細なことで病院に行くのは……」 「人間は、水を飲まないだけでも死ねるんだよ」  《黄昏》は怒っていた。  私が死のうとしているから怒っているのではない。いや、私は死のうとしているわけではないのだから、こういう考え方は間違っている。私は、現在、うっかりと死出の旅路を歩み始めているのかもしれないが、死にたかったわけではない。生き続けていくつもりだったし、今も死にたいわけではない。  ただ、少し疲れていたのは事実だ。  死にたくはない。と思う。同時に、死んでしまっても仕方がないと思う。葬式はあまり良い思い出がないが、自分自身の葬式を見ることはできないのだから、それは関係ないようない気がするが、それでも誰かが悲しむ姿は……私の葬式で悲しんでくれる人はいるのだろうか。いないかもしれない。誰が私の遺影を抱えてあの長くて黒くて派手な車に向かうのだろうか、それは未来において回避できない、そう誰もが死に向かうのだから、何年後の未来なのか、それとも明日のことなのか私には知ることはできないが、それでも悲しむ人が少ないほうがいいと思ってしまうのは私がまだ世間を知らないせいなのか、悲しんでくれない葬式というのは絵にはならないが、私が知っている数少ない人たちが悲しんでいる姿というのは想像するだけでも悲しいことだから、そういう人たちが悲しまないで欲しいと思う、思う、思う――。
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 私は目を覚ました。  真っ白な天井があった。  病院の匂いがした。かすかな薬品の匂い。  荒い質感のシーツ。温かいけれどゴワゴワとした毛布が体の上にのっている。  喉は不思議と渇いていない。右腕に覚えた違和感が答えてくれた。ひじから伸びた細いビニールの管が続いて、もっと大きなパックにつながっている。ビニールパックの中身は水のように透明で、シール状になっているラベルには見慣れた書体で『生理食塩水』と書いてある。  点滴の奥には《黄昏》がいた。オレンジ色のかすかな光の中で、薄い本を読んでいた。  とても遠い気がして、口についた。 「――」  《黄昏》は誰が見てもわかるような驚き方をして、私を見た。それから本を閉じて、私の枕元にそれを置いた。タイトルが見えた。私も知っているが、あまり興味のないジャンルの本だった。私の右側に、人間の重みが一人分加わり、シーツが動いたのを背中で感じた。 「気分はどうだ?」 「いつも通りだ」  私は答えた。首を捻っているのが疲れて、天井に視線を戻す。病院での目覚めが良かった、というためしはない。病院という空間が心地良いものではないからだろう。 「入院するのと、通院するの。  どっちがいい?」 「通院」  私は即答した。すぐ側で呆れたような気配がした。 「わかった」
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 体温計で熱を測った。  一人で病院に行くのが嫌だった。  だから、  見なかったことにした。