久しぶりに小話を置いておきます。
その旋律はとても美しかった。
音楽の先生の指先が奏でた音は、春の陽射しのように優しかった。
私は子どものために簡略された音符の並びを食い入るように追った。
わずか4段分の旋律だった。
けれども、紡がれた輝きは夜空のダイヤモンドのように、きらきらと美しかった。
旋律には日本語の優しい歌詞がついていた。
私は帰り道に、何度も口ずさんだ。
小学校の音楽の教科書。
短いメロディ。
単純な音色。
それでも、その旋律は美しく優しかった。
たくさんの曲を知り、たくさんの音色を習ったけれども。
その旋律よりも美しく、優しいものはなかった。
時は過ぎ、私は大人になった。
友人にその話をすると、みな首をかしげた。
そのような歌詞は聴いたことがない、と。
ドレミで旋律を言うと、不思議がる。
その旋律は知っているような気がする、と。
あるいは、それは――ではないかと曲名を言う。
私の知っている曲名ではなかった。
有名な曲を子ども用に編曲することは多い。
その際、歌詞をつけタイトルをつけることもある。
音楽の教科書に載っていたのなら、その手の類のものではないか。
その言葉に私は納得した。
あの美しく優しい旋律は想い出の中にしかないのだ。
違う教科書で音楽を習った人たちには伝わらないのだ。
あの日の音楽の先生のように、ピアノが弾けたのなら伝わったかもしれないけれど。
さらに時間は過ぎた。
諦め切れなかった私はその曲を探した。
そして、私はネットの中で、想い出の曲に再会した。
ずっと探していた。
ずっとずっと、探していた曲だった。
あの日、習った旋律だった。
久しぶりに聴いたあの曲は、3分もの長さがあった。
日本語ではない歌詞で歌われていた。
それでも、美しく優しかった。