並木空の記憶録

「紅の空」の管理人2の備忘録

■嘘

 オウ・ユの屋敷は、いつでも琴の音がした。
 皇帝から玉のようだと寿がれた主人の腕前もさることながら、文人墨客たちも腕を競い合う。
 遠方から訪れる者も少なくなく、ちょっとした社交場のようになっていた。
 顔ぶれも様々で、共通点があるとしたらただ一つ。
 琴が好きだ、ということぐらい。
 義理の娘であるリョウジも、大人たちが出入りする環境に慣れていた。
 育ちきっていない両の手の平を広げて、琴の糸を弾いていく。
 曲と呼ぶには、まだ滑らかさの足りない音が紡がれていく。
 童女の側で、その様子を見守っているのは養父ではなく、若い男だった。
 ハンチョウと呼ばれる若者は、北方の血を感じさせる色の瞳を細める。
 稚い存在が一生懸命に譜を追うのは愛らしい。
 手をいっぱいに広げて弦を押さえるのは、可愛らしい。
 最後の一音が宙に溶けた。
 演奏をどうにか終えた童女は、不満げな表情を浮かべる。
 童女の大きなためいきをかき消すように、ハンチョウは拍手を送る。
 冥い青の瞳がギロリと若者をにらみつける。
「同情はいりません」
 リョウジは言った。
「拍手に値すると思ったから、拍手をしただけだ」
 ハンチョウは微笑む。
「子どもだからと、馬鹿になさっていますのね。
 私は私というものをよく知っています」
「人という生き物は、自分が思うほどには、自分というものを知っていないものだ」
 若者は気にせず、琴にふれる。
 撫でるように弦にふれ、何音かを鳴らす。
 その音に、童女は大きなためいきをついた。
「あなたから褒められても嬉しくありません」
「それは嘘だよ、リョウジ。
 褒められて嬉しくない人間はいない」
 ハンチョウは微笑んだまま言う。
「私のようなつまらない者でも、自尊心というものを持っておりますの」
 童女は傷つけられた、とそっぽを向く。
 大人ぶった物言いに、歳相応の反応の差がおかしくて、ハンチョウは声を上げて笑った。

(慶龍11年:王瑜の養女オウ・リョウジ、客人ハンチョウ)