並木空の記憶録

「紅の空」の管理人2の備忘録

椅子を埋めるもの、冠を戴くもの

 建平元年以降。
 フェイ・ホウスウとカイ・ゲッカ。


 日記代わりの小話です。
 この組み合わせで話を書くのが好きなもので、申し訳ない。
 趣味に走ったコンビです。


 鳥が高く鳴いた。
 鋭いその声は、窓越しであっても室内に届いた。
 刃のような色をした空から届く陽光は、薄い。
 折り重なる影の輪郭がぼんやりとほぐれていきそうなほどに、頼りない。
 少女は書を解く手を休めた。
「鳳?
 何を考えているの?」
「ああ」
 今、存在に気がついた、と言わんばかりに、青年の灰色に近い茶色の双眸が細められる。
 冷たすぎる容貌が溶けて、親しみやすくなる。
 選ばれそこなった竹簡が床に置かれた。
「より多くの人を殺す方法を考えていた」
 鳥陵の若き皇帝は穏やかに言った。
 明日の天気を語るように、未来に摘み取る命の話をする。
「……そう」
 ゲッカは青年から目を逸らした。
 人の命を奪うことはいけない。ことだとゲッカは習った。
 兄のような存在に。
 そして、ゲッカは……どうすれば人の命を奪うことができるのか、教えてもらった。
 誰かを傷つけなければ守れないものがある。
 人間は矛盾した考えを同時に宿すことができる、ということを見て覚えた。
 兄のような、その人はゲッカに根気強く言った。
 人は信じるに足りるものだ、と。
 この世界は素晴らしく、とても美しいものだ、と。
 だから、忘れてはいけない、と。
「鳳の仕事は大変だね」
 ゲッカは微笑んだ。
 広すぎる部屋に、ためいきが一つ落ちる。
 少女のものではない。
「自分で決めた道だ」
 衣擦れの音にかき消えそうな声が告げる。
「神さまは天の下に、地上を作ったのにね」
「誰もが欲しくなるものだ」
 石の床がカツンカツンと鳴って、止まる。
 裾をさばく大きな音がして、部屋には沈黙が広がる。
 ゲッカの黒い瞳は吸い込まれた音をたどる。
 謁見用のものとは違う、実用的な椅子に青年は座っていた。
 堅い木で作られたそれは、頑丈そうに見えた。
 が、それだけだ。
 目を見張るような豪華な装飾はない。
 煌びやかな玉に飾られていなければ、息が止まるような彫りもない。
 そこに座る青年がまとう衣も、丁寧な針仕事をうかがうことができるものの、贅を尽くしたとは言いがたい。
「玉座というものに」
 ホウスウは椅子の肘掛けの部分を一撫でした。
「ボクは欲しいと思ったことはないよ」
 少女は青年を見上げた。
「欲がないな」
「地上にある椅子は、天上のそれには敵わないから」
「沖達か?」
「うん。
 沖達が言ってた。
 椅子に座っている人が偉いんじゃないんだって」
 兄のような人の字を口にすると、まだ心が痛む。
 もう会えないと思うから、胸がぎゅっと締めつけられる。
「本当の王さまの頭の上には、冠が見えるんだって。
 地上のどこにいてもわかるように」
 だから……。
 そう、かつて海月の総領だったゲッカに彼は言ったのだ。

 あなたがどこにいても、私には一目でわかるのです。

 海月ではありきたりな鉄色の瞳が、真っ直ぐゲッカを見つめて言ったのだ。
「なるほど」
 ホウスウは考えこむようにうなずいた。
 ほどなくして、鳥陵の皇帝は口元に淡く笑みをはいた。
「私は椅子に座る者だな。
 だが、冠を戴く者が現れるまでは譲れない。
 それほどやすいものではないからな、これは」
 灰色に近い茶色の瞳は、決意のようなものをにじませながら言う。
 皇帝という言葉にふさわしい姿だ、とゲッカは思った。
 お目通りが叶わなかったエイネンの皇帝よりも、ずっと皇帝らしく見えた。
「鳳が生きている間は、そんな人なんて現れないよ」
 ゲッカは言った。
「それはそれで困ったものだな」
 私は楽がしたいんだよ。と本心ともつかない口調で、青年は言った。
「鳳らしいね」
 ゲッカは微笑んだ。
 きっと、今日の空と同じぐらいに頼りないんだろうな。
 と、知りながらも、少女は笑顔を浮かべたのだった。