建平三年。
カイ・ゲッカとカイ・ロウタツ。
婚約が整ってからの二人のやり取り。
「ごめんなさい」 途切れ途切れに少女は言う。 すべらかな頬を真珠のような涙が伝う。 ポロポロと。 大きな瞳から零れては、肌を伝い、衣に染みこみ、地面に吸いこまれていった。 「ごめんなさい」 子どもらしい純粋さでゲッカはくりかえす。 混じりけのない黒い瞳がロウタツを見上げる。 小さな手が伸ばされる。 育ちきっていない細い腕が男をつかむ。 「ごめんなさい」 それしか言葉を知らないように、少女は言う。 「華月様」 男は膝を折る。 衣を通して、地面の堅さを感じる。 それは磨き上げられた宮廷で膝を折るよりも、はるかに自然なことだった。 男は何年も少女に仕えてきたのだから。 まだ『華月』という字を授けられる前から。 少女が『月姫』と呼ばれ、皆から可愛がられていた時から。 長いこと見てきた。 瞳孔と虹彩の区別がつかないほど、真っ黒な双眸を。 「ごめんなさい」 「何に謝るのですか?」 「沖達に。 ボクはずっと謝らなきゃいけなかったんだ」 零れる涙の合間に、言葉が降る。 細い腕が男の首に回される。 母親が、泣く我が子を抱きしめるのに似た仕草だった。 歳上なのは自分のほうで、泣いているのは少女のほうなのに。 ロウタツの胸におぼろげな像が結ばれる。 今は遠すぎる過去。 泣く自分を、海へ還っていった母は、こうして抱きしめてくれたのだろうか。 ほのあたたかい涙がロウタツの肌に衣に染み渡っていく。 「ボクが泣くなら、沖達は泣けなかったんだ。 本当はとっても悲しかったのに。 カイゲツが消えて、悲しかったのは、みんな一緒だったのに。 沖達だけは泣かなかった。って。 みんなは責めるけど、沖達は泣きたかったんだよね」 子ども特有の高い声が耳に響く。 涙は止まったのだろう。 声には、淀みがなかった。 「華月様の思いこみでしょう」 ロウタツは言った。 「ボクが総領になる時、沖達は言った。 人前で涙は見せないように、って。 それが総領になる条件だった」 「酷なことを申し上げました」 あのとき少女は八歳だった。 母を知らず、父を亡くしたばかりで、頼れる親族もいない子どもに突きつけた条件。 「きちんと本に書いてあったよ。 人の上に立つ者は、怒ってもいいけど、泣いちゃいけないって。 誰か一人だけを同情してはいけないって。 だから、だから」 ゲッカはわずかに体を離し、男の顔を見る。 「華月様は立派な総領でした。 今でも、そう思いますよ」 カイゲツという小さなクニは、鳥陵によって呑みこまれた。 最後の宰相は、最後の総領を見つめ返した。 「本当は沖達も泣きたかったんでしょう」 ゲッカは言った。 「いいえ」 ロウタツはきっぱりと答えた。 「やらなければならないことが山積みでした」 「一番、悲しかった人が泣かなかったなんて変だよ。 沖達は自分の命が惜しくないほど……カイゲツを愛していたんでしょう?」 ゲッカの言葉がロウタツの心を打つ。 「確かに、命は惜しくありませんでした」 小さなクニだった。 ちっぽけなクニだった。 生まれて育ったクニだった。 父も母も、その前からも、カイゲツで生まれ、カイゲツの大地になり、海になった。 「ですが、私は皆ほどカイゲツを愛していなかったのでしょう。 だから一番ではありません」 カイゲツは、鳥陵の海月郡となった。 郡を治める長官として任命されてからの生活は、カイゲツの宰相だったころと似ていた。 そこに総領としての少女がいるか、いないか。 その声を聴くか、聴かないか。 その笑顔を見るか、見れないか。 記憶力が良いのは幸いなことだ。ロウタツは過去の像を結ぶのが得意だった。 少女の笑い声が聞こえた。少女の姿を城の端々で目にした。 女神たちの加護から遠い身の上だというのに、不思議なことだった。 まるで大きな腕で包みこまれているように、後悔が打ち寄せてきても、涙を流すほどの悲しみが襲ってくることはなかった。 「ごめんなさい」 「謝らないでください、華月様」 ロウタツは、まだ幼さが抜け切らない少女を抱きしめた。 「どうしてみんなは、沖達のことがわからないんだろう。 悲しみも苦しみも知らない人間なんていないのに。 辛いことを知らないに人間なんていないのに」 「私は鈍感にできているのでしょう」 「だったら」 ゲッカがぎゅっと抱きついてくる。 「そっちのほうが、もっと悲しいよ」 少女は言った。 男はためいきを噛み殺し、微笑んだ。 小さな少女の頭には、燦然と輝く冠が見える。 天から降された王者の光だ。 仁愛をもってして、国を治めれば、富み栄えるだろう。と賢者たちは言う。 カイゲツというクニが消えてしまったことが惜しまれる。 王者がいるというのに、治める大地がない。 「ごめんなさい」 「もう謝らないでください。 少なくとも、今の私は悲しくはありません」 ロウタツは言った。