並木空の記憶録

「紅の空」の管理人2の備忘録

 ある日の《shi》と《黄昏》。
 推敲していないで、勢いだけの話なので。
 それを楽しんでくれれば良い感じです。

 朝、起きる。カーテンを開く。カーテンは白のオーガンジーだ。緑の刺繍糸で仕事の合間に“風”を縫いとめた。窓を開けば、今日の朝の空気が部屋を巡回する。
 いつでも窓を開く準備は出来ていて、誰もが窓を開く力を持っている。
 それは幸せなことだ。
 と、私はつい最近まで知らなかった。
 内と外を隔ている窓を開くのは、自分だけの力だということも知らなかった。
 誰かが来て、窓を開くことを願っていたのだ。それはとても虫の良い考えで、無意識だからこそ恐ろしいのだ。
 目を逸らしても世界は変わらない。耳を塞いでも世界は変わらない。
 だから、私は口を開く。息を吸う。朝を知り、その空気を体に取り込む。
 今日も朝が来て、私はカーテンを開く。窓を開け、外を知る。
 それから、部屋の片隅にあるパソコンの電源ボタンを押す。
 静かな機械音を聴きながら、冷蔵庫を開いて、紙パックを取り出す。抹茶味の豆乳にストローを差し込む。プツンッとかすかな手ごたえと共に、ストローはパックに吸いこまれていく。
 私はストローをくわえながら、モニターの電源を入れる。いくつかのプロセスを経て、私の世界は、全世界につながる。
 0と1。あるいは光。
 そんな目には見えないもので、つながる。
 これも、もう一つの窓だ。
 引力に逆らった抹茶味の豆乳を味わいながら、私はもう一人の私に成り代わるために、電子の世界に身を投じる。
 すぐさまメッセージがチャットとして飛んでくる。
 『おはよ(^o^)/』
 私はキーボードを打つ。
 モニターの向こうには人がいて、リアルタイムでつながっている。が、その顔を知らない。それが普通の範疇に入っていて、自然なことだということに、たまに違和感を覚える。
 『おはよう』
 電子の世界の私はロールしていない。
 何故なら、現実世界の私――《shi》がすでに演じられているモノだからだ。
 ロールにロールを重ねたら一周してきて、本来の「私」になってしまう。
 『今日は――と一緒じゃないんだね(・・?』
 モニターの中で、0と1で構成された虚像が首を傾げる。
 私はモニターとキーボードの間を見つめる。
 『――は黄昏にならないと出てこない』
 現実を生きている《黄昏》は忙しい。遊びの一環として、インターネットがあり、オンラインゲームがあるが、それは私に無理に合わせているだけだ。
 私が生きていることを確認するために《黄昏》はインターネットに接続して、オンラインゲームにログインする。そこに私の痕跡を探して、黙って《黄昏》は去っていく。
 付き合いの良さから言えば《グングニル》のほうが上だろう。
 《黄昏》は《shi》も《グングニル》も、持ち得ないモノを手にしている。
 だから、彼は彼の人生を歩き、彼は彼の窓を開いている。
『へーそうなんだ。残念(>_<)』
 十代の少女のアバターをまとった人物は、“がっかり”のエモーションをする。
 目の前の虚像を操る人間が十代の少女である保証はない。それが、この“窓”を開いた先の世界なのだ。
『しぃちゃんは暇?』
『いや、これから用事がある』
『そっかぁ。じゃあ、またね(^o^)/』
『お疲れ』
 私はキーボードで入力すると、ログアウトする。
 抹茶味の豆乳は空っぽになっていた。朝食は終わりだ。
 テーブルの上に置き去りにしてあった携帯電話が音楽を奏でる。一昔前の流行歌は私を呼ぶように、鳴り続ける。
 メールだろうか。
 しばらく放置したが、携帯電話は鳴り止まない。用事がある人物がいるのだろう。留守電につながるように設定しておけば良かった。と後悔しながら、私は携帯電話に手を伸ばした。
 機械である携帯電話は冷たかった。
 サブディスプレイに、電話をかけてきた人物の名前が0と1で構成された文字で点灯する。
 私は鳴り続ける携帯電話を握りしめる。
 いつまでも鳴る。
 一昔前の流行歌は懐かしいというよりも、珍しいといった印象が強い。わずらわしいはずの電子音を聞きながら、私はモニターから離れて、カーテンに近づく。
 今日も空は空のままで、好き勝手な天気を広げていた。
 ふっつりと携帯電話が鳴り止んだ。
 やがて鍵が開く音が聞えてきた。玄関のドアが開く。身長が高いから一歩が長い。だから足音に間が空き、重い。フローリングの床が振動を伝える。

「おはよう。
 で、電話になんででなかったんだ?」

 声が頭の天辺よりも高いところから降ってきた。
 《黄昏》は私よりも背が高いのだから、当然なのだが……あまり気分の良いものではない。
「おはよう」
 私は言った。
「答えは?」
「電話は好きではない」
 私は振り返った。
 これから出勤するのだろう。《黄昏》はスーツを着ていた。部屋着のまま己とは、生きていく世界が違うのだ。ということを再確認する。
「ゲームをしていたのか?」
 《黄昏》はモニターを一瞥した。画面に映っているのはいくつかのアイコンと壁紙だ。
「すぐにログアウトした」
 開ける窓はいくつもあるが、その窓が満足できるものかどうかはわからない。
 足音が私の横を通り過ぎて窓を閉める。カーテンがかすかに揺れる。白い生地に緑の糸で刺繍したカーテンが揺れる。
 緑は風の色だ。変化をもたらすものだ。
「まだ熱が下がっていないんだろう? 横になっていろよ」
「飽きた」
 私は正直に答えた。
 横になっていると、そのまま死体になってしまいそうな気がする。それは私の妄想で、人間は簡単に死んだりはしないのだけれども、やはり天井ばかりを眺めていると、とりとめもない考えが去来するのを止められない。
 何かをしていないと気がまぎれないのだ。
「そんなに病院が好きなのか?」
 《黄昏》は入院をほのめかす。
「寝るのは嫌いではない」
 私はパソコンの電源を落として、モニターも消す。
 《黄昏》の視線を感じる。疑問があるのだろう。
「だた……寝る直前に思うことがある」
 携帯電話を手に、私は布団に向かう。
「次はいつ目が覚めるのか。
 それを考える」
 だから私は眠るのが好きではない、ともいえるのかもしれない。
 人間は未知のものに恐怖を感じるものなのだ。
 《黄昏》と目線が会う。
 呆然と同情が混じったような、奇妙な色が浮かんでいた。
 どうやら、また私は常識の範疇を飛び越えた答えを出してしまったようだ。
「おやすみなさい」
 私は魔法の言葉を使う。
「ああ。夜に、また寄る。
 欲しい物があるなら」
「後でメールする」
「そうか。
 じゃあ、しっかり寝ておけよ」
 ためいきを一つついて《黄昏》は部屋を出て行く。
 足音は遠ざかっていき、やがて鍵が閉まる音がした。
 私は、また小さな私の世界を手に入れたのだった。
 孤独で……終わらない時間の世界を。