並木空の記憶録

「紅の空」の管理人2の備忘録

大切な人

 建平三年以降。
 ソウヨウとホウスウの会話です。


 日記が書けないので、代わりに置いておきます。

「大切な人なんです」
 茶色に近い緑の瞳の青年が言った。
 それを聞いた男は、ひとつ疑問を思った。
 青年の言い回しに引っかかったのだ。
 チョウリョウの民が口にする文句とは違う。
 もっと尊いものを捧げるように、青年は『大切』だと言った。
 愛妻家の多いチョウリョウの民の中で育てば、惚気話を聞かされるのは日常茶飯事だったが……。
 目の前の青年ほど、幸福に『大切』だとは言わないだろう。
 ホウスウはゆっくりと思い出してみる。
 父は、母に『最愛』と言っていたような気がする。
 兄は、義姉に『一番』と言っていたような気がする。
 妹は、時期に義弟になる予定の青年に向けて『特別』だと言っていたような気がする。
「最愛とは言わないのだな」
 ホウスウが尋ねると、ソウヨウは不思議そうな顔をする。
 幼子のように小首をかしげてから、
「比べられません」
 微笑みを浮かべる。
「……なるほどな」
 灰色に近い茶色の瞳の男は、口の端をゆがめた。
 最愛は、最も愛する。
 という意味であったな、と納得した。
 順位がつけられるからこそ、最愛なのだ。
 それしか持たないのであれば。
 
 『大切』なのだろう。

「そういえば、皆さん『最愛』だとおっしゃいますよね。
 シュウエイもそんなことを言っていました」
 気になりますか? と付け足すように、ソウヨウは尋ねた。
「いや。
 今に始まったことではないだろう」
 男は言った。
 シ・ソウヨウは、ずいぶんと人間らしくなったものだ、と思う。
 それでも、人間臭くはない。
 出来の良い人形が人真似をしているような空虚さが漂う。
「姫の幸せが、私の幸せです。
 そう思える人を『大切』と呼ぶのは、間違っていますか?」
 恋情とは異なる響きでの問い。
 それはフェイ・ホウチョウの兄としては複雑な質問だった。
 チョウリョウの民は一生に一度の恋をするという。
 至上の宝だという。
 喪失の瞬間ですら甘美だという。
 だから、妹の恋人には『恋』であって欲しい。
 たった一つの想いなのだ。
 けれども『大切』だという言葉が包む想いは、混じりけがない。
 根源たる『情』だ。
 月がどれほど姿を変えても、追いかけてしまう人の心のように。
 青年の想いは、歳月で風化しない。
 それを得られる人間は、どれほどいるのだろうか。
 恋を得る者よりも、少ないだろう。
「偽りを並べるほうが問題であろうな」
 ホウスウは言った。
「では、私はいつでも問題だらけですね」
 至極当然といった顔つきで、青年は言った。
 それにホウスウは苦笑いを浮かべた。

 たったひとつの『大切』には、偽らない。

 そう青年は告げたのだ。
 鳥陵の皇帝は、それ以上言葉を紡がなかった。
 どれだけ偽りだらけでも、揉め事が起きなければいい。
 終幕まで演技を続けてくれれば、かまわない。
 己の手の内にある間は、舞台に幕を引かせない。
 だから、歳下の配下が口にしたことを気にも留めなかった。