建平三年以降。
フェイ・ホウスウとシ・ソウヨウ。
ある昼下がり、白鷹城に朱鳳から皇帝が訪れた。 城主である大司馬は、それを出迎える。 秋になれば兄弟になる二人である。 意気投合……とは、ならないのが不思議なことであった。 「自分の存在意義が見出せなくなったか?」 意地悪くホウスウは尋ねた。 緑の瞳を持つ青年は堪えたそぶりも見せずに、首をかしげる。 童子のようなそのクセは、だいぶ大きくなってから身についたものだ。 そのことをホウスウは知っていたが、特に何も言わなかった。 「どうしてですか?」 頑是無き子どものように、ソウヨウは尋ね返す。 恵まれなかった幼少期を取り戻そうとするかのように、大司馬である青年は幼子のような真似をする。 「お前よりも剣に優れた者がいる。 自信を喪失したか、と思っただけだ」 ホウスウは言った。 「はあ」 興味なさそうにソウヨウはうなずく。 青年は、目の前に置かれた茶碗のふちをなぞる。 黄金を帯びた鈍い緑の茶が波立つ。 曖昧な色の瞳が嬉しそうに和む。 「では、私は何度も自信を喪失しなくてはなりませんね。 それは大変です」 ちっとも大変ではない口調で、ソウヨウは言った。 「世界で一番優れた剣客が、戦術に長けているとは限りません。 いえ、大切なのは戦術ではありません。 戦略もあるほうが良いでしょうが」 ソウヨウは口元に笑みをはく。 効果的に一呼吸置いて、 「大司馬に必要なのは、決断力です」 顔を上げ、告げた。 柔和な笑みのまま、その口調は力強い。 大きくはないが、清涼感のある若々しい声はよく通る。 それが言い切った。 これから戦場へ立つ者にとって、どれほどの勇気となるだろうか。 迷いのない眼差しに、酔ってみたくなる。 「なるほどな」 ホウスウは微笑んだ。 「今更、どうなさったのですか? 私は降格ですか?」 微塵も不安に思っていないくせに、青年は問う。 「気まぐれだ」 「そうですか。 鳳様は、変わっていますね」 それも今更でしたね、と付け足すように呟く。 ソウヨウの指先は、茶碗のふちをなぞり始める。 波紋作りは、青年にとって楽しい遊びらしい。 ホウスウは卓に肘をつき、ためいきをこぼした。 「自慢できるようなものを見つけるのは、難しいな。 誰が見ても、そうだといえるような。 一番になるのは至難だ」 「私は一つ持っていますよ」 嬉しそうにソウヨウは言った。 中途半端だといわれる色の目が、キラキラと輝いている。 「姫のことをこの世で、一番愛しているのは私です。 これだけは譲れません」 幸せそうにソウヨウは断言した。 嵐色の目が微かに見開かれ、それは微苦笑となる。 数年前、何も持たない幼い少年がいた。 守るものも、大切なものも、執着するようなものも、持っていなかった。 少年は多彩な能力を秘めており、その片鱗はすでに同世代を凌駕していた。 成人した暁には、大陸史上に残るような優秀な暗器になるだろう、ということが一目でわかった。 暗殺者になる者が、喉から手が出るほど渇望する能力をすでに、備えていたのだ。 殺すには惜しかった。 二人目を見つけるのは苦難な才能だった。 けれども、そのまま利用することはできない。 少年は諸刃の剣。 何も持たないからこそ、紙の裏と表をひっくり返すように、簡単に裏切れる。 脅しは効かない。 弱点はない。 自分の命すら執着していない。 ホウスウが手始めに行ったのは、弱点作りだった。 何にも執着しないなら、執着させればいい。 利用しやすいように、自分の命よりも大切なものを作らせればいい。 少年の心は小気味良いほど、空っぽだった。 ホウスウの妹であるホウチョウは、うってつけの人物だった。 我がままで、情にもろく、美しかった。 ホウチョウに、心動かさない人間はいない。 他者の心よりも、己を優先させる傲慢さ。 他者の痛みを、己のように感じる繊細さ。 ホウチョウと言葉を交わし、憎しみも、妬みも、怒りも湧かない人間はいない。 少女は、実に無神経だった。 ホウチョウと言葉を交わし、喜びも、希望も、憧れも湧かない人間はいない。 少女は、実に人間らしかった。 ソウヨウの空の心に、ホウチョウはさまざまな感情の種をまいた。 徹底した主従関係の中、強制的に過ごした時間。 一年経つころには、ソウヨウはホウチョウに惹かれていた。 ほんの数年で、抜き差しならないところまで、少年は少女に執着した。 ここまでは、ホウスウの読み通りだった。 ホウチョウが、ソウヨウに惹かれたのは計算外だった。 妹の好みは、父や兄のようなチョウリョウらしい男性だったはずだ。 強い意志を持ち、求心力があり、武勇に優れている。矜持高く、強引な面を併せ持つ。 それが蓋を開けてみれば、異なる結果に終わった。 理由はわかっている。 ホウチョウは状況に酔ったのだ。 夢身がちな胡蝶は、物語のような恋に憧れていた。 いつか、さらわれるようにして、愛を告げられたい、と心の隅で思っていたに違いない。 さらに、ホウチョウは同情心が豊富だった。 ソウヨウの身の上は、おあつらえ向きだった。 自分が死ぬまで同情ができて、何でも言うことを聞いてくれる玩具。 我がままな少女が手放すはずがない。 他の女にくれてやるのは我慢ならないだろう。 ホウスウはためいきをつく。 二人の関係は果たして「恋」なのだろうか。 他者に仕組まれて、計算された上で成り立つ感情。 当人たちが幸せを感じているのだから、余計なお世話なのだろうが……、仕組んだ張本人は思う。 これで良かったのだろうか、と。 くりかえし、くりかえし。 何度でも考える。
思ったよりも、長すぎた(笑)